本作は、宗教二世である、私の友人が残した遺書に感化されて生まれました。
彼女とは、私が入信していた新興宗教で出会いました。
私は元々、自ら入信した宗教一世です。
私が入信したきっかけは、就職活動のOB訪問で出会った方が新興宗教の信者だったことです。当時、就職活動で落ち続け、自信を無くしていた私にとって、不安を取り除き自信を与えてくれるその方が救いでした。
彼女が信者だった新興宗教の集会に参加するようになり、やがて、私を必要としてくれて、愛してくれるその団体が居場所になっていきました。
ただ、しばらくするとその団体は、彼氏や友達と別れることを強要してきました。
私がそれを嫌がると集会に参加させないなど仲間外れにしました。
私は一度信じてそこが居場所になっていたので、違和感があっても、居場所を失うことが怖くて脱会できませんでした。
さらに家族が新興宗教にはまっておかしくなっていく私を諦めずに支えてくれました。
また、家族に説得され、プロテスタントの牧師の話を聞くようになりました。
私の信じていた新興宗教は、信者以外を皆サタン側とみなす。
しかしプロテスタントは信者以外を隣人と見なして愛を注いでいました。
牧師さんと会話を重ねるうちに、洗脳が徐々に覚めて、新興宗教から脱会できました。
脱会後は、プロテスタントの信者となり、自由で楽しい生活を送っておりました。
そんなある日、当時私と同じ団体にいた宗教二世の友達が自ら命を絶ったことを知りました。
その子が遺書を残していて、私は人づてにその遺書の内容を聞きました。
そこには、信仰ではなく、ありのままの自分を親に愛して欲しかったと書いてあったそうです。
彼女の死を知った時、耐えられない弱い想いにかられ、救えなかったことに言い訳をしました。
脱会後、団体のおかしさに気づいても連絡を取らなかったのは、立場的に取れなかったからだ。
脱会した私は、その団体にとってはサタン。
そんな私が連絡したら、彼女に迷惑がかかる。
だからできなかった。
私は自分だけ脱会して、のうのうと生きていたことを必死に肯定しました。
彼女を救えたかもしれない。
その後悔が消えることはなく、やがて、どんなことも彼女を救えなかった理由にはならないと思い知りました。
団体の教えがどうであれ、命より尊いものは無い。
私が彼女を救えなかったことに、何の言い訳もできない。
そう考えた時、私にできることは、彼女の想いを伝えていくことだと思いました。
いつか宗教二世の問題が形骸化する時がくる。
当事者がどれだけ辛い思いをしたのかは忘れられ、「2022年には宗教二世問題が露呈した」とだけ教科書に書かれる時代が来るでしょう。
でも、絶対に風化させてはいけないのは、その問題の中で生きてきた、人の痛みと想いです。
彼女の遺書に綴られた想いこそ、忘れられてはいけないと思いました。この痛みと想いだけは後世に伝えて、二度と彼女のような想いをする人が生まれないようにする。
これが、脱会できて、今生きられている私にできることだと思いました。
そして、大学で映画を学んでいた私は、彼女の想いを映画にして伝えていくと決めました。
「ゆるし」はフィクションであり、決して彼女の遺書をそのまま物語にしているわけではありません。
ご親族の気持ちも考え、彼女とはまったく関係ない主人公像にしています。
それでも彼女の痛みと想いを届けること。
この軸だけは曲げず、物語を作りました。
この映画で宗教二世の方の想いが伝わることを、そして宗教二世の方が苦しまない世になることを、切に願っております。
映画『ゆるし』監督 平田うらら